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2008年2月21日
カテゴリ: 未分類

映画『ライラの冒険 黄金の羅針盤』の原作者が語る“子どもと演劇”

もうすぐ、公開が迫っている映画の原作者フィリップ・プルマンが“子どもと演劇”について書いた文がありますのでご紹介します。子どもたちにとってお芝居を劇場で観ることの意味が、とてもわかりやすく書かれています。

多くの方に是非読んでいただきたいと思って、掲載します。

なぜ演劇か?なぜ子どもか

フィリップ・プルマン (訳=小林由利子)

はらっぱを駆けまわることと同じように、子どもにとって劇場に行くことは不可欠なことです。食べ物や飲み物が必要なのと同じように、子どもたちは音楽家が目の前で演奏する本物の音楽を聴く必要があるのです。子どもには、実際の生活のなかで自分が愛されていると感じる体験をすることが必要であるのと同じように、さまざまな物語を読んだり、聞いたりするという経験もとても大切なことなのです。

子どもたちからヒミツの隠れ家や、優しさ、食べ物、飲み物、運動などを、もしわたしたちが取り上げてしまったら、子どもたちは生きていけるはずもありません。同じように、もし子どもたちから美術、音楽、物語、演劇を取り上げてしまったら、子どもたちの心のなかは枯れ果ててしまいます。でも子どもたちが芸術に飢えていることは、なかなか表面には現れてはこないので、おとなたちは子どもに芸術が必要だということがわからないのです。芸術を与えなければならない立場のおとなたち、たとえば教師、政治家とか、親たちでさえ、このことにまったく気がついていないのです。彼らは、子どもたちには美術や音楽や演劇などまったく必要ないと言いはり、芸術は高慢な人たちだけが欲しがる高価な贅沢品であると決めつけて、関心を持とうともしません。かと思うと、子どもたちは、コンピューターとビデオ・ゲームがあれば十分幸せで、他には何も必要ない、などと勝手に決めつけているおとなたちがいます。

わたしは、なにも特別なことを言おうとしているのではありません。子どもたちには、美術や音楽や文学が必要であり、美術館や博物館や劇場へ出かける必要があり、楽器の演奏や演技やダンスをやってみる必要があるのです。子どもたちは芸術にふれることを必要としています。おとなたちは、子どもたちが芸術を自分のものにする権利について基本的人権の問題としてとらえ、それを保障すべきなのです。

 

ここで、もう少し演劇という芸術について考えてみましょう。

演劇やオペラを劇場で観るということは、単に受動的な体験ではありません。演劇鑑賞は、テレビを見るのとは違うのです。映画館で映画を見ることとも違います。おおぜいが一堂に会する生の体験なのです。その場の全員が中央の舞台で行われている出来事に集中します。そして、そこにいる一人ひとりがその場を支えています。俳優が、シンガーが、ミュージシャンが、舞台を支えます。そして観客も固唾を飲んで見つめたり、笑ったり、拍手したり、感嘆したりすることで、舞台を支えています。

劇場では、そこにいる全員が想像力を働かせています。映画なら実際に起きているように見せることができますが、演劇にはそれができません。舞台は点々の集まりでできた画像ではありません。実際の空間を、実際の身体が動き回ることでしか何も生まれません。何でもできるコンピューター・グラフィックスという画面の世界ではないのです。だから、当然、舞台には限界があります。たとえば、背景の布に描かれた部屋の絵は実際の部屋ではありませんし、少年役の小さな人形はもちろん本物の少年ではありません。しかし、この限界こそ、観客が自分で埋め合わせるために残された隙間なのです。わたしたちは、目の前のものがあたかも本物であるかのようにみなし、そこに物語は立ち現れるのです。演劇の限界は、演技を共有するために観客に与えられているのです。演劇はうそっこの世界に遊ぶことを観客に求めています。もし、観客がうそっこの世界に参加しようとしなければ、演劇はうまくいかないのです。

しかし、ひとたび観客が想像力をはたらかせて演劇に参加すれば、不思議なことに物語はなによりもリアルな体験となるのです。それがうまくいくかどうかは、照明のあたった舞台の俳優たちだけではできません。一人ひとりの観客に大きく左右されてつくりだされるものなのです。暗がりの中の観客も、演劇のつくり手なのです。こういうことがうまくはたらいたとき、わたしたち観客が受ける経験は、今まで椅子にどっかりと腰かけて受け身で見ていたのとは比較にならないほど、より豊かで深いものになり、ある時には神秘的なものにさえなるのです。

こうした習慣を十分身につけて育てば、おとなになってから演劇やオペラを自分で探して見に行くことができるでしょう。しかし、子どもたちは自分たちだけではそれができないのです。子どもたちは、誰かに連れて行ってもらわなければなりません。劇場に行ったことがある大人たちに、同じような経験ができるように手助けしてもらわなければなりません。それだけでなく、子どもに劇場でのできごとを語り、子どもたちの好奇心や興味をかきたててくれる大人たちが必要なのです。そして、演劇は、子どもたちのためにわかりやすくしたり、わざとおどけてみせたり、考えることを置き去りにするようなやり方で上演されるのではなく、子どもにどのような演劇を見せたらいいかを考え、理解している人たちによって上演されることがとりわけ重要になるのです。

わたしには、子どもの時、おとなになってから、それぞれの劇場での忘れられない出来事があります。それはわたしにとっていちばん重要なものと言えるでしょう。一つは、九歳のときシェイクスピアの『真夏の夜の夢』をオールド・ヴィック劇場で観た時のこと。名喜劇俳優フランキー・ハワードの演じるボトムに笑いすぎて、私は椅子から転げ落ちてしまったのです。もう一つはおとなになって、ロンドンの国立劇場で名優のピーター・ホールが演じたギリシャ悲劇『オレステイア』を見た時です。奥の深い壮大にして残酷な物語が徐々に解き明かされていくようすは、畏れを感じる経験でした。ほかにも、こらえきれないほど面白おかしくて、同時にかわいそうで怖くて震え上がってしまうような経験もしたことがあります。もし、このような演劇を観る機会がなかったら、わたしの人生はとても貧しいものになっていたでしょう。演劇は、心に栄養を与え、魂を育て、精神をはばたかせるものです。

トーベ・ヤンソンの傑作『ムーミン谷の夏まつり』(1954年)の中に、劇場とはどういうものかをとてもうまく表現した場面があります。ムーミン谷を洪水が襲い、ムーミン一家は自分たちの家を脱出します。避難場所として見つけたのは水に浮かんでいた劇場でした。ムーミン一家の誰も今まで劇場というものを見たことがなかったので、一家はカツラや衣装でいっぱいの部屋、途中で消えてしまう階段、裏側に暖炉が描かれているドアなどがある不思議な家にとても戸惑うのです。そこにねずみのエンマおばさんがあらわれ、この劇場という不思議なものについてムーミン一家にこう説明するのです。「劇場というものは、この世でいちばん大切な家なの。なぜなら、そこへ行けば、誰でも自分がどんな人になれるかを見せてもらえるからね。ちょっとがんばりさえすれば自分がなりたい人になれるのよ。そして、自分がなにものであるかを気づかせてくれる家なのよ。」

劇場について、これほど的確な表現はないと言えるでしょう。

*この論考は2004年に『ACA(Action for Children Arts)News』に掲載されたものです。

「児童・青少年演劇ジャーナル げき 5」(2007年3月発行)より

投稿者 冨士川 佳余子 @ 19:34 | コメントはまだありません
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